私が気象予報士試験に合格したのは、平成9年の夏に行なわれた第8回の試験だった。その年の10月に気象予報士の登録を受け、当時の気象庁長官であった小野俊行さんよりいただいた登録通知書を大事に持っている。
私の小学生時代は、実は一種の気象少年であった。低学年のとき読んだ理科の学習漫画で雲のかたちや台風などに興味を持ち、5年生のとき学校の図書室でラジオを聴いて天気図を描く方法を書いた本をたまたま見つけて自分で天気図を書くようになった。つまり、NHK第2放送で放送している「気象通報」を聴き、放送される国内外の各地の天気実況や高気圧や低気圧の位置を天気図用紙に書き取って、等圧線を引き天気図を仕上げるのである。昼の気象通報は午後4時に始まるので、学校が終わると徒歩15分の道を走って家に帰りラジオのスイッチを入れる毎日だった。その通学路からは富士山が良く見えた。
当時のテレビの天気予報は、黒板に天気図が書いてあって「お天気おじさん」が解説をしながら高気圧の「高」と書いた丸いマグネットを動かしたり、天気図に線を書き加えたりしていたが、思えば雨や晴れや雪やそんな天気の移り変わりをそんなふうに説明できることがこどもの私にはとても新鮮だった。当時は「鉄腕アトム」や「お茶の水博士」が十万馬力でテレビを駆け回っていた頃で、今日の「理科離れ」どころか「科学」が少年のあこがれだった。天気図を自分で書けることは少年時代の私にとってちょっとした自慢でもあったし、科学というものへのあこがれを満たすことでもあった。久しぶりにめくった小学校のアルバムには、私の「大人になったらなりたいもの」は「天気予報の予報官」と書いてあった。
そんなことは、大きくなるにつれて忘れてしまった。しかし、さすがに子供の頃覚えたものはなんとやらで、ラジオを聴いて天気図をつける方法はずっと覚えていたが、少年の日の気象へのあこがれはいつしか遠くなった。
そんな私が改めて天気を強く意識したきっかけのひとつは、富士登山だった。私は山登りとスキーが趣味だが、富士山頂からのスキー滑降に挑戦してみようと、富士山にスキーを担いで5月のある日登ったのだ。
その日1993年5月15日早朝、絶好の晴れでその日の登山の成功は約束されているようにみえた。5合目から歩き出してまもなく目の前に小さな煙のような雲が浮かんで消えた。そんなことは天気の大勢には関係ないだろうと思えたのだが、たまたま前を歩いていた登山者が「今日は天気が悪くなるな」と言ったのが聞こえた。そんなことがあるのだろうか、私にはとてもそうは思えなかった。
しかし、その予想は正解だった。6合目から7合目に差し掛かる頃、次第に雲が湧き上がり風も出て、8合目に着くころにはほとんど青空も見えなくなった。天候急変である。そのとき引き返せばよかったのだが、登りたい気持ちが先にたって登高を続けてしまった。そのうちに気温が下がり雪面が硬く凍りつき、とうとう頂上のすぐ下で行き詰まってしまった。登るにも下るにもつるつるのアイスバーンだ。どうするか。いやな予感も頭をよぎった。そのとき、頂上の方からピッケルにアイゼンで完全武装した富士山測候所の人が降りてきて、ピッケルで氷の斜面に階段を切ってくれた。そのため私は富士山の頂上に這い上がることができたのだが、今でもその富士山測候所の人は命の恩人だと思っている。
その日の富士山測候所の記録を調べると、実は、前日の夜から気温が急降し、前日の最高気温から一気に17℃以上も下がって−15℃まで下がっていることがわかった。富士山の3月の平年平均気温が−14.5℃だから真冬に近い寒さになったわけで、その寒さと強風が初夏の緩んだ雪をアイスバーンに変えたのだ。私はそのとき気象のおそろしさをまざまざと感じた。そして、富士山のような高い山ではそんな気温の激変が起こるということも新発見であった。朝の小さな雲に天候悪化の兆しを読み取れるような、そんな技を自分のものにしたいし、気象というものをもう少し理解しないことには登山はできないなと感じた。
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